『つくる』を『食べる』のもっと近くに。多様な事業の軸はただ一つ。
株式会社山本忠信商店
代表取締役 山本 英明
1959年、北海道河東郡音更町生まれ。明治大学工学部を卒業後、静岡県内の食品関連の商社に勤務。5年間にわたる修業期間を経て、1987年に株式会社山本忠信商店入社。小麦政府売渡受託業務を開始するなど事業を拡大。2005年、父の後を継ぎ、同社代表取締役に就任。製粉工場「十勝☆夢mill(とかちゆめみる)」を建設して小麦粉・プレミックス粉の製造販売を手がけるほか、北海道の農産物を幅広く取り扱う商社としても成長するなど、多様な事業を展開。2020年には株式会社山忠HDを設立し、代表取締役に就任。持株会社体制へ移行し、十勝を拠点として日本全国・シンガポールに所有するグループ会社・関連会社計12社を率いてさらなる躍進を目指す。
※所属や役職、記事内の内容は取材時点のものです。
十勝を拠点として、信頼を重ねてきた「ヤマチュウ」。
「ヤマチュウ」の愛称で親しまれている当社は、豆の名産地として知られる十勝・音更町で、小豆など豆類の取り扱いを目的として1953年に創業しました。創業者は私の祖父・山本忠信です。
祖父は第二次大戦後に満州から実家のある大阪へ引き揚げ、商売をしていました。当時の人々は甘いものに飢えており、餡の材料となる小豆の販売を商機と捉えて一家8人で音更町へ移住。1960年には株式会社山本忠信商店を設立し、祖父と父とで信頼を築いてきました。
私は後を継ぐつもりもなく、大学4年時に就職が内定。ところが、就職活動を終えた友人との話題は休みと給料のことばかりで、「これからそうして一生を過ごすのか?」と違和感を覚えたのです。
考えた末、「会社に入らせてください」と父に頭を下げました。そうして、卒業後は大手の食品関連商社で修業することになります。企業が勢いよく成長していた時期で、その様子を間近で見た経験は、後に自分で会社を変えていこうとした時に大いに活きました。
豆に加えて小麦も。将来を見据えた事業の拡大に着手。
当社は現在、豆、小麦、米などを中心とした農作物の仕入れ販売のほか、多岐にわたる事業を展開しています。しかし、私が入社した時の主体は豆で、小麦の取り扱いは1989年に始めました。生産者と直接お付き合いする道を拓きたいと考えたのが理由です。
当時は業者が農家を回って豆を現金で買い、当社のような企業に卸すという大正時代から続く集荷体制でした。扱う豆の90%以上を集めてもらっていただけに、業者の皆さんに後継者がいないことに不安を覚え、当社で農家から集荷できるようにしたいと考えました。
とはいえ、業者とバッティングしてしまうためすぐには始められません。でも小麦なら、バッティングすることなく生産者とお付き合いができたのです。まったくの新規参入でしたが、豆のための設備を活用できたことが決め手となりました。
しかも、豆と小麦は収穫時期が重なりません。小麦の流通に参入して生産者グループをつくり、そこから将来的には豆も集荷しようと考えました。その後、タイミングを計って豆の集荷も開始。豆、小麦ともに生産者団体を設立し、生産者の皆さんとの協力体制を築けたことが当社の強みとなっています。
生産者側から消費現場が見え、肌で感じられる流通を。
小麦の取り扱いは、予想もしていなかった製粉工場の建設につながりました。きっかけは、ある会合で経営の考え方を発表したことです。当時は豆と小麦の集荷がメインでしたから、「集荷時期以外は肥料の販売などを通じて生産者とのパイプを太くし、結果的に生産者から頼りにされる会社になりたい」と話しました。
すると参加していた方に、「社員にとっては、なんでもいいからとにかく売ってこいと言われているだけでは」と指摘されたのです。社員に事業の意味を示していないことに、初めて気づきました。
私は考えに考え、「農業をコミュニケーション産業にする」という当社の方針を立てました。そこからさらに考えを進め、今のモットーは「『つくる』を『食べる』のもっと近くに」。顔が見える流通というと、通常は消費者から生産者が見えると考えますが、私たちは生産者側から消費現場が見えたり、肌で感じられたりする流通にしたい。生産と消費が支え合う流通にしようという想いを込めました。
豆に関しては、例えば京都銘菓用の小豆を作っている生産者は、メーカーとの交流を通して小豆を卸すことがゴールではなく、おいしいお菓子ができたかを気にかけるようになりました。
小麦事業でモットーを実現できる体制を整えるには、外部に依頼していた製粉に自社で取り組むことが必要でした。2011年に完成した製粉工場は北海道産小麦だけを取り扱う国内でも稀有な存在で、生産者の想いを込めた小麦粉を全国に届けています。
ホールディングス化は事業が大きく進展するきっかけに。
コロナ禍の2020年、株式会社山忠HDを設立しました。経営方針の前文に「こんな年に船出をするのも乙なもの」と書きましたが、実際はそれどころではない苦労がありました。ただ、伝えたかったのは、「小さく縮こまって嵐が通り過ぎるのを待つのではなく、コロナ禍が過ぎた時に私たちは何を手にしているのか」明確な答えが必要だということでした。
ですから、M&Aや新規事業の立ち上げなどさまざまなことを手がけました。コロナ禍をチャンスに変えるという決意で挑戦し、グループ会社・関連会社がぐんと増えました。
山忠HDでは1次産業から3次産業、さらには6次産業まで包み込むことを目指しています。1次産業に徹底的に寄り添い、マーケットに近いところまでできるだけやろうという考えです。ホールディングス化をきっかけに、当社の事業は大きく進展しました。
新たな事業の例としては、マーケットに寄り添うことも必要と考え、共同出資で「株式会社standard bakers」を設立して東京にベーカリーを出店。また、経営方針の中で重点課題としていた障がい者雇用に向け、福祉事業にも取り組みました。地元の福祉事業者とともに「とかちアークキッチン株式会社」を設立し、キッチンカーでピザフリットの販売などを行っています。
JALグループの「株式会社JALUX」とは戦略的ビジネス提携を結び、十勝にちなんだ商品の企画・開発などに取り組んでいます。この商品を作っていた惣菜製造の会社を事業継承し、とかちアークキッチンで障がいのある社員が製造の一部を担当することで人材不足解消にもつながりました。
「地域創生」に貢献できる企業を目指して起業支援も。
今は、企業としてやらなければと考えていたことが一通り揃ったところです。ですから当面のビジョンは、それぞれの事業をしっかり固めていくのが第一義です。
その中で、想像していなかったシナジーも出てきました。例えば、道産牛肉などを扱う会社では、コロナ禍の巣ごもり需要が終わって売上は落ちていましたが、惣菜製造部門がこれまで活用されていなかった牛肉の部位を活かし、新商品を開発しました。きっとこの先も、新しい事業のアイデアが現場から出てくることでしょう。
音更町で創業し、根を張る私たちは、地域創生に貢献できる企業になりたいという想いも持ち続けています。そのための取り組みの一つとして、社員が町内会長やPTA会長などを務めると手当を出しています。「企業は社会の公器」とされますが、公器とは一人ひとりのボランティアから始まるべきと考えているからです。
さらに、音更町を起業の中心地にするという夢もあります。山忠HDは地方創生ベンチャー企業と共同で「合同会社コントレイル」を2021年に設立し、十勝で起業しようとする人たちの支援に取り組んでいます。
求めるのは好奇心を持って変化を面白がり、楽しめること。
当社はこれまで事業に対応した動きを重視してきたため、プレーヤーは育っているものの、マネジメント人材の教育は追い付いていません。そこが課題の一つで、コストをかけてもマネジメント人材の育成にしっかり取り組みたいと考えています。
もう一つの課題を言うなら、現場発でどれだけのことができるか。現場からのプッシュ型の事業や社内ベンチャーを生み出していくことが、これからは重要になります。そのために、採用に関して求めるのは好奇心が強い人。初めてのこと、わからないことも面白がってやってみる、変化を楽しめる人材が必要です。
私は以前、オーストラリアから買い付けた牛1,200頭を売ったことがあります。何もかも初めてのことで、ビジネスとして成り立たせるためさまざまな経験をしました。それらは本当に面白い体験でしたし、そういった事例を若い社員に新たに作ってほしいのです。当社でぜひ、「あれは面白かった」と思える仕事に挑戦してください。